特集 祭りだ、祭りだ


◆噴き上がる火柱。炸裂する火花。
半端じゃない熱さを制する男の心意気
 抱きかかえて放揚する勇壮な手筒花火・豊橋祇園祭

   豊橋祇園祭奉賛会常任理事 酒井 数美

◆祭りの匠、「手作り子どもみこし」を手がけて

   (社)日本DIY協会シニアアドバイザー 西沢 正人

◆祭りがわたしを育ててくれた。
 仕事の肥やしに、そして人生を豊かに

   講談師 神田 陽子

◆相鉄線周辺の夏祭り

   トラベルライター 山岸 清実

 


相鉄沿線時代物語17・・・・平沼橋の巻
ぶらり寄り道!沿線スポット・・・・平沼橋
ご存じですか?・・・・ だんだん短くなっている所要時間
今宵の肴17・・・・アジとトマトのタルタル仕立て


 

噴き上がる火柱。炸裂(さくれつ)する火花。
半端じゃない熱さを制する男の心意気
抱きかかえて放揚(ほうよう)する勇壮な手筒花火・豊橋祇園祭(ぎおんまつり)

 

豊橋祇園祭奉賛会常任理事 酒井 数美

 

 

 

 

武器から発達し、祭礼用に発明された手筒花火

 夏の風物詩と言えば、祭りの花火ですね。わたしたちが通常よく目にする打ち上げ花火は、固定した打ち上げ筒に花火玉を入れ、導火線に火をつけて打ち上げられるものです。ところが、わたしの住んでいる愛知県豊橋市の祇園祭で打ち上げられる花火には、約1mほどの竹の筒に火薬を詰め、それを男たちが抱えたままで放揚する(打ち上げる)「手筒花火」というものがあります。しかも祇園祭が行われる吉田神社は、その発祥地なのです。

 手筒花火は、火柱が直径10〜20cm、高さは最高で30mにもなり、その炎の勢いと、最高点から振り落ちる火の粉が描く放物線は、炎の芸術と言えるのではないかと思います。その芸術を可能にする男たちの、降りかかる火の粉や熱さをものともせず、微動だにしない勇姿は、ほかの地ではまず見られないものではないでしょうか。

 手筒花火は祇園祭の神事として、五穀豊穣(ほうじょう)、無病息災、家運隆盛、武運長久を神に念じて放揚され、放揚者の勇気のあかしとして、その製造と放揚の技術が約450年もの長い間継承されてきています。だから、豊橋の男にとって手筒花火を放揚するということは、一端(いっぱし)の男、勇気のある男として認められるということでもあるのです。

 わたしも氏子の一人として、18歳から46歳になる今日まで毎年手筒花火を放揚してきました。手筒花火を放揚するには、気力と体力が要るので、最近は体力的に少しきついこともありますが、やっぱり手筒花火を放揚しないと男がすたるというか、気が済まないというか。

 手筒花火は、戦国時代に軍事的に使用されたのろしや火槍(やり)が起源と言われます。更に鉄砲伝来によって噴出技術がプラスされ、やがて火薬の持つ危険性や神秘性が、神への畏敬(いけい)や神の加護の精神と結び付き、信仰心の表れとして祭礼用の手筒花火が作られるようになっていったようです。永禄元年(1558)には吉田神社の天王祭で花火を始めたとの記録が残っているそうです。豊橋で手筒花火が盛んになったのは、徳川家康が三河を治めていたときに、裏切りがあるといけないということで、火薬庫を地元の岡崎ではなく豊橋に置いたために、火薬や武器に携わる人や技術が育ったからです。

 祇園祭は吉田神社の例祭で、毎年7月の第3金・土・日曜に行われています。神社は平安時代末期に創建されたようで、古くは天王宮牛頭(ごず)天王社と言い、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭っています。源頼朝(よりとも)が特に崇拝し、庇護(ひご)したことから、戦国時代に幼少の頼朝公の行列を再現した御輿渡御(みこしとぎょ)が天王祭として行われるようになったのが、由来です。例祭は金曜日に宵祭(よいみや)、土曜日に前夜祭、日曜日に式典と神幸祭(しんこうさい)が行われます。メインイベントは神幸祭の御輿渡御です。これは吉田神社の氏子である八か町によって代々役割分担された、獅子飾鉾(ししかざりぼこ)、獅子頭、御輿、笹踊(ささおどり)、頼朝と乳母、十騎(じゅっき)、饅頭(まんじゅう)配りなどの行列が練り歩き、平安から鎌倉時代の様式を再現するというものです。

 祇園祭というと、京都を思い浮かべる方も多いでしょう。京都に比べれば歴史、規模、華やかさなど到底かないませんが、今日まで脈々として引き継がれてきた豊橋の祇園祭は、自分たち自身が伝統を受け継いでいるという自負心があるんですよ。その象徴として幕開けの宵祭で、氏子1人が1本ずつ、300人の氏子によって300本の手筒花火が奉納されるのです。


(写真 豊橋祇園祭奉賛会より)

   

 

伝統がとぎれる危機もあった

 祇園祭は、太平洋戦争中も、戦後の混乱のときも開催しようと努力されてきましたが、昭和25年に火薬類取締法ができたときに最大のピンチを迎えたのだそうです。手筒花火は、氏子たちが火薬から作っていたのですが、法律で花火工場でしか作れないことになったわけです。そこで手筒花火を続けていくには、地元になんとしても花火工場を自分たちの手で作らなければならないということになって、八か町の氏子たちが出資をして花火会社を設立したのです。わたしの祖父も氏子八か町の一つ上伝馬町(かみてんまちょう)の住人で氏子だったので、出資者の一人になりました。祖父や父が例祭に関係していたため、わたしも、もの心付いたときには手筒花火を触ったり、見たり。幼稚園に入るころから、例祭にははっぴを着て参加しました。氏子八か町の男たちは、小さいころから例祭をやるものだと思って育っていくんですよ。

 正式に例祭の担い手になるのは、青年会に入ってから。例祭に関しては役がきちんと決まっていて、年齢と経験によっていろいろな役を担っていきます。それらの役をすべてやったということになると、町内では尊敬される存在です。わたしも高校を卒業してからそれを目ざして青年会へ。そして40歳を過ぎて中老(ちゅうろう)に属し、現在は氏子八か町の代表で組織した祇園祭の主催者となる奉賛会の役員として例祭の総まとめ役をしています。

 例祭の運営もイベント会社など一切使わず、すべて八か町の氏子たちで行います。準備は5月のゴールデンウィーク明けから始まり、例祭が終わる7月末まで生活がすっかり祭りモードになってしまいます。わたしは精肉卸業を営んでいるのですが、週末などはほとんど祭りのことにかかりっきりで、やはり家族の理解も無いとできませんね。お客さんも「もう例祭の準備だね」と理解してくださって、納品時間などをわたしの都合で変更してもらったりしています(笑)。

 

手筒花火の放揚者は自ら花火も作る

 手筒花火は、八か町それぞれ特徴を持っていて、競い合って奉納しますが、既に花火作りから、その競争は始まります。手筒花火作りのポイントは、まず竹選び。3年過ぎの物で、まっすぐで、丸くて肉厚な物がベストです。内径や節の数なども考慮に入れます。いい竹はなかなか無く、毎年いろいろな場所に下見に行きます。いい竹が見つかると、ほかの町の人に取られないように秘密にします。

 次のポイントは火薬の強さと鉄粉の量です。手筒花火は、火薬の量が三斤(きん)、四斤、五斤、八斤などがあります。ここの花火作りでは一斤を800gとして、これに鉄粉を混ぜるのです。火薬と鉄粉の分量が増えるほど火花の太さ、伸びが違うので、自分の花火が一斤でも増えるとうれしいものなんです。

 祇園祭では、昔から手筒花火を放揚する人は花火作りもすることになっています。ですから、町内の成人男性の7割は煙火打揚(えんかうちあげ)従事者の資格を持ち、年1回の講習を毎年受けます。もちろん、わたしも資格者です。

 奉納の際に失敗が無いように事前に予行演習をします。このときには自分の放揚する斤量の物を鉄粉の量や細かさを変えて5、6本作り、裸の竹のまま、くいに縛って打ち上げ、その年の火薬の強さをチェックします。本番の前日、花火工場で、予行演習でうまくいった火薬と鉄粉の配分で混ぜ合わせた物をござや南京(なんきん)袋で覆い、その上から縄を二重、三重に巻き、持ち手を付けた竹筒に仕込んで、更にハネ火薬を入れ、その上から丸めた新聞紙をきつく詰め込みます。最後に噴出口に点火用の火薬を詰め、ふたをして、上に奉書(ほうしょ)を留める。これで完成です。

プライドを持って伝統を次世代につなげていきたい

 宵祭の昼間は、八か町がそれぞれ大筒花火を御輿にして町内を練り歩き、吉田神社に奉納します。神前花火奉納は夜のとばりが降りるころ、観衆が見守る中、境内に集まった氏子八か町の放揚者たちによって手筒花火の奉納が始まります。先頭を切る奉賛会会長の手筒花火に火がつき、シューという音とともにオレンジから白色に炎の色が変わり、やみを焦がすと、複数の放揚者が次々と入れ替わりながら、町ごとに花火を絶やさないように順次、連続して放揚。300本の放揚時間はわずか15分。でも、それは炎と爆音に包まれながら、炎を制する男たちの気迫がみなぎる凝縮した充実の時なのです。

 八か町全部の放揚が終わると、引き続き大筒や星が出る打ち上げ花火の乱玉が放揚され、炎の一大ページェントは幕を下ろします。

 予行演習したにもかかわらず、たまに点火直後に手筒が破裂したり、最後に手筒の底からジェット噴射のように炎が噴き出す際に体が振られ、手筒を離してしまうなんてことも起こることがあります。そんなことをした放揚者は、後々までへまをしたと言われてしまうんですよ。逆に腰を低くして構え、手筒の上端を肩の高さに合わせ、炎の熱さにも平気な顔をしていると、その勇姿に声が掛かったり、拍手が沸いたりするんですよ。

 わたしの手筒花火放揚のデビューは18歳でしたが、そのときはたった1分間の放揚が永遠の時間のように思え、もう無我夢中でした。終わった後は、何か一人前になったような気がしましたね。結婚前、妻はわたしが放揚している姿を見て男気を感じてくれたらしいですよ。その後、火花でやけどしたこともありましたが、そのときも決して手筒を離したりしませんでした。

 祇園祭にはもう一つの見どころがあります。市内を流れる豊川の河口で12,000発の花火を打ち上げる前夜祭です。この花火もわたしたちが考案したオリジナリティあふれるもので、どこにも負けないと自負しています。 

 祇園祭は豊橋人の心の故郷なんですね。だから、その故郷を無くさないよう、祭りの伝統を次の世代にしっかり渡していかなければならないと思っています。それがわたしのライフワーク。その花火を一生揚げていきますよ。(談)

■酒井 数美(さかい かずみ) 愛知県豊橋市生まれ、46歳。18歳より手筒花火の放揚者として勇姿を披露。以来、毎年、豊橋祇園祭の開催・運営の中心的担い手となってきた。現在、奉賛会常任理事。家族は妻と一男一女。酒井精肉店を経営。

 

 

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