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人はなぜコレクターになるのか
Illustration:Kawabata Yukiko
人間はモノを集める動物だ
この世界には2種類の人間がいる。それはコレクターになる人と、ならない人だ−と言い切ってしまえばことは簡単なのだが、そうはいかない。というのも、ぼくの見たところでは、この世のなかに、モノを集めたいという気持ちがまったくない人間なんて、いないからだ。
コレクターとかオタクというと特別に凝り性な人のように思われがちだが、ふつう、人間はみんなモノを集めている。モノを集めていないようでも、実はプリクラや名刺を集めたり、旅行に出かけたりしている。それは要するに、思い出や人脈や知識や快感を集めているということであり、広い意味ではコレクターなのだと思う。
つまりこの世のなかには1種類の人間しかいない。モノを集めることに喜びを見出す動物。それが人間なのだ。ただし、集める対象とか、熱意には、若干の個人差がある。それでもやはりモノを集めるのは人間の本能のひとつだと思う。特に男の子の場合、コレクター率は100%に近い。
ぼくの個人的な体験、ならびに周囲の仲間たちの例をみてみると、たいていの男の子は、サルから人間へという進化を個体発生で再現する頃(ころ)、すなわち1歳前後で立ち上がり、歩きはじめたあたりから、モノ集めの習性を発揮しはじめる。もちろん、まだ自分一人では集められないが、「好み」ははっきりと現れ出す。タオルやぬいぐるみが、まず第一の対象だ。ここまでは女の子も同じ。
だが男の子の場合、次に間違いなく〈電車期〉がはじまる。本物の電車からプラレール、ミニカーまで、幼児の興味は尽きない。なかには踏切マニアの男の子もいる。踏切のカンカン、カンカンという音が無性に好きで、踏切が上がったり降りたりするのが、たまらないらしい。電車は通るし車も通るしで、乗りもの好きの子は一日いても飽きない。ぼくの住まいは踏切の近くなので、ときどき電車を見にくる親子連れを見かける。これが生涯続く「テッちゃん」のはじまりであることに、不幸にして親は気付かない。
〈電車期〉を卒業しても、次には〈戦隊・怪獣期〉が待っている。○○レンジャーなどの戦隊ヒーローモノやウルトラマンの類(たぐい)である。今や親子2代のマニア、コレクターも少なくなく、父親は誕生日やクリスマスにかこつけては高価なフィギュアセットなどを買い込み、箱に入れたまま飾って、子どもに「さわるな」といったりする。子どもはここで、ひそかに「遺産相続」という概念を学ぶことになる。
さらには小学校に入ったあたりから、〈カード期〉〈ヴァーチャル期〉がはじまる。各種カードのコレクション、ならびにゲーム内でのアイテム・コレクターになるのだ。このほかにも、昆虫採集、切手、古銭、土器、化石、鉱物標本など、さまざまな誘惑がこの世にはあり、それらが生涯の趣味となる人は少なくない。
コレクターが決める市場価格
芸術品や骨董品など、世間的にも評価の高いモノを集める人ばかりがコレクターなのではない。むしろコレクターの多数派は、他人が見たらどうということのない、客観的価値の疑わしいモノを集めている人のほうだろう。
この十数年来、急速に増えたのが、サブカルチャー系のコレクターだ。昭和レトロのブームもあって、メンコや漫画の付録、仮面ライダー・カードなど、現在、40〜50歳代前後の大人が、子ども時代に触れたおもちゃを、懐かしがって集めるという傾向がある。手塚治虫の初期の漫画に至っては1冊50万円という話も聞く。
もっと若い世代でも、それぞれにガンダムやエヴァンゲリオンなど、世代ごとの必須アイテムがあり、それらのキャラクター関連グッズが、ネット・オークションなどで高値で売買されている。こうしたコレクターズ・アイテムは、コレクター側の需要によって価格が大きく変化する。
ぼくはかれこれ25年ほど古本を集めてきた。古書収集には、この道50年という人はざらだから、ぼくなどまだまだヒヨッ子なのだが、それでも驚くのはミステリや幻想文学の初版本の値上がりぶりだ。戦前に活躍した夢野久作や小栗虫太郎になると20〜30万円の価格がついている本も少なくない。ぼくもこうした作家は好きだが、この値段では手が出ない。何でお金があるのか知らないが、20代の若者が、そういう本をポンと買って行くのを見ると(価値が分かっているのか)と腹が立つが、たんに僻(ひが)んでいるだけだという自覚はある。
探偵雑誌の値上がりもすごくて、戦前の「探偵文芸」「シュピオ」などは古書目録などでは1冊1万円以下で見かけることは、まずなくなった。以前は2〜3,000円で売っていて、それでも「高い」と年輩のコレクターは怒っていたものだ。たぶん、昔はもっと安かったのだろう。古兵のコレクターは、昔の値段を知っているから急速に人気が高まったジャンルでは、いまの値段が不当に見えてしまって、手がでなくなる、ということがあるらしい。
戦後作品では、長らく三島由紀夫が古書価も高かったが、最近はやや凋落(ちょうらく)気味のようだ。代わって人気が高いのが、澁澤龍彦、中井英夫、寺山修司といったアングラ・異端系の人々。この手の人々も好きだったぼくとしては、ファンが増えるのは嬉(うれ)しいが、古書の値段が上がるのは辛(つら)いところだ。だが、戦前の探偵小説本人気や、60年代アングラ文化のブームは、一過性のものではなく、このまま定着するのだろう、とぼくは感じている。
コレクターが支持する作家は、出版界でも放ってはおかない。復刻や全集などが企画される。こうしたマニアの動向が、長い目で見たら、作家やサブカルチャーの再評価を促すことにつながっているのだ。
モノ集めは自分集め
コレクターは、自分が集めたコレクションを眺めて、時々「全部で○○万円の価値がある」などと、満足そうにつぶやく。それどころか、コレクションをゴミとしか思わない家族に向かって「○○万円の価値があるんだぞ」と言い返したりする。
だが、家族の反応は冷淡だ。「どうせ売らないからゴミはゴミよ」とか、言われたりする。
そう。たしかにそうなのだ。コレクターはコレクションを手放さない。手放したら、その時はもう、コレクターではない。だからコレクションの客観的な値段など、本当はどうでもいいのだ。
他人から見れば価値のないもの、あるいは生涯、金に替えることのない大量の品物を抱え込むのは、なぜだろう。その明確な理由は分からない。ただひとつ言えるのは、コレクションを通して、その人は、以前よりもはっきりと、自分という人間を表現できるようになっているということだ。
ひところ「本当の自分探し」という言葉が流行(はや)ったが、本当の自分を見つけるのは難しい。実はコレクターは「自分が好きなモノ」を通して、本当の自分をコレクションしているのだ。好きなモノたちを通して、それらを好きな自分という人間の輪郭が明らかになっていく……。だからコレクションは、その人にとって自分自身であり、自分の心を映す鏡なのだ。
あるいはこの辺りに、女性のコレクターが少ない理由があるのかもしれない。女性は男性よりも自分をきちんと把握している人が多い。それにコレクションを見つめなくても、本物の鏡に映る自分の姿をよく見ている。
コレクターは世界の永続を望む
コレクターはひとりよがりで、人間嫌いだと思われがちだ。たしかに人付き合いが苦手な人は少なくない。だが本物のコレクターは、モノを通して世界を愛している人種だ。なぜなら、自分が好きなモノを生み出してくれるのは、この世界だからだ。世界の中心にあるのは、自分ではなく、自分の好きなモノを作り出してくれている他人たち。コレクターはそう理解している。
アウシュビッツで母を失ったユダヤ人思想家のハンス・ヨナスは、「現在の世代には未来世代への責任がある」という世代間倫理を提唱した。そして、個人が死後の社会に関心を持つためには子孫の存在が大事だとも述べた。
ぼくはたまに、自分が死んだ後のことを、想像してみることがある(ぼくもそういう歳になってしまった)。ぼくには子どももいるのだが、それに加えてコレクションがある。ぼくが死んだら、3万冊を超えるコレクションはばらばらになって、友人知人に譲られたり、古本屋に引き取られたりするだろう。子どもの手元には1,000冊程度残してもらえれば、ぼくとしては充分だ。
どんなにお金持ちでも、自分の死後、自分の財産がばらばらになって、他人の手にわたってしまうと想像したら、心安らかに死ぬことは出来(でき)ないのではないだろうか。しかしコレクターは、自分が愛したモノが、他人の手にわたり、自分よりずっと長生きすることを願っている。そして自分が、そのモノと一緒にちょっとだけ死後も生きていられるような気がして、嬉しくなる。
ながやまやすお■1962年、茨城県生まれ。文芸評論、社会時評、科学史研究などの多岐にわたる活動を展開。1996年、『偽史冒険世界』(筑摩書房)で第10回大衆文学研究賞を受賞。著書に『おたくの本懐「集める」ことの叡智(えいち)と冒険』(筑摩書房)、『日本人の老後』(新潮社)、『奇想科学の冒険−近代日本を騒がせた夢想家たち』(平凡社)、『不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か』(光文社)ほか多数。
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