>>瓦版トップ >>171号トップ >>特集 涼を感じる和の暮らし
幽霊は風鈴と並ぶ夏の風物的存在?
 ところで、噺家(はなしか)全般はともかく、少なくとも僕自身は怪談噺を演じていても背筋が寒くなるようなことはありません。演じ手が怖がっているようでは、商売上がったりですから。ほかの噺家による怪談噺を聴いているときも同様で、「はあ、そこをそう演じるか」などと、どうしても商売っ気のある聴き方が勝ってしまいます。翻って、一般のお客様は、怪談噺を聴いてホントに涼しさを感じているのでしょうか。

 特段、夏が舞台だと伝えなくても、噺の中で「そこにこう蚊帳をつりまして」といえば、聴き手であるお客様は「夏の噺だな」と理解する。現実の風鈴でなくても、言葉でもって「風鈴の音(ね)がチリンチリンと」と言えば、お客様は「夏の涼」を感じてくれるようです。そう考えると、怪談噺の中に出てくる幽霊は、風鈴と同じような存在なのかもしれません。噺に登場した途端、なんだか分からないけれど条件反射的に涼しさを感じてしまう、いわば夏の風物なのでしょう。何より幽霊にコタツは似合いませんから。

幽霊を笑いで包み込む落語家の親切心
お化け長屋
 ある長屋に一軒の空き店がありまして。店子連中は、そこを物置代わりにして便利に使っておりました。当然、大家としてはガマンならず、「おめぇたちのために空けてるわけじゃねぇ!」と店子を怒鳴り散らします。借り手がついては困る店子連中は慌てますが、知恵者の杢兵衛(もくべえ)が妙案を思いつき、「借り手がきたら、俺のところへよこせ」と言います。「店賃はいりません。あの家は幽霊が出ますと言って追い返してやる」。
 案の定、何人かやってくるが、幽霊を怖がって借り手がつきません。すると、威勢のいい男が借り手として名乗りを上げます。「店賃がいらないとは、ありがてぇ。いっぺん幽霊にも会ってみてぇもんだな」と言い放つ男。なんとか追い出したい店子連中は計略をめぐらします。夜になって男が帰ってくると、その家に隠れていた連中が仏壇の鉦(かね)をチーンと鳴らし、天井から濡れ箒(ほうき)で顔をサッとなでる。さすがの男も逃げ出すのですが……。
もう半分
 夫婦2人で営んでいる酒屋に、爺(じい)さんがフラリとやってきます。その爺さん、「お銚子(ちょうし)に、もう半分ください」と妙にケチくさい注文を繰り返す。ところが、爺さんが帰ってみると50両も入った包みが置き忘れられていることに気づく。身重の女房は「しらばっくれよう」と提案、血相を変えて戻ってきた爺さんを追い返してしまいます。大切な金を失った爺さんは、橋から川へ身投げしてしまうのでした。
 やがて、男の子を授かった酒屋の夫婦。その子の顔を見ると、白髪まじりで「もう半分」の爺さんにそっくり。その赤ん坊にギョロリとにらまれた女房は「ギャー」と叫ぶや、それっきりに。女房の葬式をすませた主人は、爺さんの50両を元手に店を新築。奉公人も置く身分となりましたが、乳母が5日と居着きません。ワケを問いただすと、「赤ん坊が夜な夜な行灯(あんどん)の油をペロリペロリとなめている。こんな怖い家にはいられません」という答えが……。
 ある噺のマクラで、「昔の人っていうのは、うまいこと陰陽の釣り合いを取りますねぇ」というものがあります。「桜というのは陰気な陰木(いんぼく)ですから、その下でお酒を飲んで陽気に騒いで陰陽の釣り合いを取る。対して、柳というのは陽気な陽木(ようぼく)ですから、陰気な幽霊が出てきて陰陽の釣り合いを取る」と続く。このマクラにならって落語における怪談噺の特徴を端的に申し上げると、「幽霊は陰気なものですから、笑わせることで陰陽の釣り合いを取る」といえるのではないでしょうか。

 一般に落語の怪談噺として知られているのが、「怪談牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」「真景(しんけい) 累ケ淵(かさねがふち)」「怪談乳房榎(ちぶさえのき)」の3つ。いずれも初代三遊亭圓朝(えんちょう)の作です。3作とも非常に長尺で、「牡丹灯籠」に至っては通しで語ると10日以上要する。そのため、現在ではある場面を抜き取って断片的に演じることが多くなっています。これらの噺はいずれも因果や因縁、因業といったものが主題となっていて、笑いの要素はそれほど多くありません。ただ、落語の怪談噺全般をぐるりと見わたしてみると、純粋に因果や因縁にのみ主眼を置いた噺はむしろ珍しい部類に属します。多くの怪談噺では、どんなにおっかない幽霊が出てきたとしても、それを笑いに結び付けていくのです。

 例えば、「お化け長屋」という噺では、幽霊をダシにして空き店(だな)の借り手を脅かします。幽霊(のようなもの)が出てくる場面では、ゾクゾクするような怖さがあるにはある。でも、最終的に噺の矛先はドタバタと笑いの方向に転じます。あるいは、因果モノの非常に怖い噺である「もう半分」。行灯(あんどん)の油をなめている赤ん坊が振り返り、「もう半分」という場面がサゲです。この噺はとても恐ろしく、実際、サゲのセリフを言ったところでお客様はほとんど笑いません。ただし、赤ん坊が振り返るサゲの場面には、そこはかとなくですが、おかしみの要素も感じられるものになっています。

 怪談を笑いで包み込む最たる例が、お芝居や映画でも知られる「皿屋敷」でしょう。家宝の皿を割って旗本に命を奪われた腰元お菊が化けて出る、というのが本来の話の筋。これが落語の手に掛かると、徹底的に茶化されます。ある井戸に幽霊が出ると評判が立ち、怖いモノ見たさで人がわんさか押し寄せて大騒ぎ。それに目を付けた興行師は腕まくり、あたりには露店がズラッと立ち並ぶ。それに気をよくしたお菊も、鼻につくような芝居がかった口調で「うらめしや〜」とやる始末。挙げ句、9枚までしか数えないはずの皿を18枚まで数えてしまう。「なぜ?」と問われ、お菊はこう答えます。「明日は休みたいから、2日分数えました」。

 昔は、怪談噺のサゲで「はて、恐ろしき執念じゃなぁ〜」と言った途端、急に明るい音楽が鳴り響き、カッポレを踊りながらお客様をお見送りするなんてこともありました。そこまで極端でなくても、怖い場面で肩や眉間(みけん)にグッと入った力がスッと抜けるようなセリフや場面、サゲが多くの怪談噺には用意されています。やはり、怖い気分のままお客様を寄席の外に送り出すなんて不親切じゃありませんか。どんなに怖い思いをしても最後は楽しい気分で寄席を後にしてほしい。だからこそ、笑える怪談噺が多いのでしょう。

聴き手の恐怖心をあおる演じ手の心得
 「怖いと思えば棕櫚箒(しゅろぼうき)も鬼のたとえ」なんて言葉があります。棕櫚箒は通常の箒よりも材質が弱いから掃く方、いわゆる頭の方を上にして置いておく。すると、何かの加減でもって箒を見た刹那(せつな)、鬼に見えてドキッとするわけです。でも、正体が箒だと分かった瞬間、フッと笑ってしまう。分かってみればどうってことのないものでも、心のさじ加減、心理作用によって恐怖に感じてしまうということはいくらでもあります。落語の怪談噺には、それに似た精神構造を利用している部分もあるでしょう。

 実は、怪談噺で一番ウケてくれるお客様は子どもさんなんです。「うらめしや〜」なんてやると、ケタケタ笑ってくれます。恐怖心を笑いに転化して「怖くないもん」とポーズを取っているだけなのかもしれませんが。ただ、そんな子どもさんたちですらも、心(しん)から怖がることがあります。それは「薄どろ」といって、幽霊が登場する場面で太鼓をドロドロドロドロ〜とたたく効果音です。怪談噺をせず、ただ「薄どろ」を流すだけでも子どもさんたちはみな一様に怖がります。幽霊という概念すらもないような小さなお子さんであっても、その太鼓の音によって自分の頭なり心の中におのずと禍々(まがまが)しく恐ろしい世界が呼び起こされてしまうのかもしれません。

 怪談噺を演じる上での心構えというのも変ですが、そうしたことを踏まえていうと、演じ手としては一にも二にも押し付けがましくならないことが肝心。低く太い声で「怖いでしょ、怖いでしょ」と話したところで、お客様はシラける一方です。それよりも淡々とした口調で「髪の毛をおどろに乱し」なんて演(や)るほうがお客様の心に響く。それぞれの頭の中に怖い映像を作り上げ、勝手に恐怖心を増幅させてしまうんです。

 怪談噺には恐怖もあれば笑いもある。悲恋などの因果を扱った噺では涙を誘う場面もある。それぞれの噺家がその噺をどうとらえ、恐怖なり笑いなり、あるいは哀切なりのどこに力点を置くかということでも違ってきます。そして、お客様の中にある恐怖心や喜怒哀楽といった感情のスイッチをうまいこと入れることができたら、しめたもの。逆にスイッチを入れ損ねると、噺家にとっては幽霊なんか目じゃないほど恐ろしい状況が待ち受けているのは言うまでもありません。

怪談を通して知る日本人独特の幽霊観
死神
 貧乏でカミさんにも愛想を尽かされた男。いっそ首をくくろうとしていると、死神が現れます。「長患いをしている病人には、必ず俺(おれ)が付いている。足元にいれば助かるが、枕元にいれば死ぬ。これさえ知っていれば、医者としてもうけ放題だ」。
 その教えに従い、たちまち名医と相成った男。ある日、金持ちの家に出向くと、死神が枕元に。患者の家族に「1万両差し上げるから」と請われ、男は一計を案じます。死神が居眠りしているすきをつき、布団を一回転。すると、死ぬはずだった病人がすっかり元気に。男が胸をなで下ろして表に出ると、待ちかまえていたのが死神。無理やり、地の底のような薄暗い場所へと引きずり込んでいきました。
 あたりには無数のロウソク、すべて人の寿命を表しているという。「オマエのだ」と示されたロウソクを見やると、燃え尽きる寸前。さっきの病人のと取り替えたのだと言われ、男は死神に助けを請うのですが……。
 僕は、アメリカはバーモント州にあるミドルベリー大学で毎年、夏期講習の講師を務めています。日本語を勉強している学生さんを相手に授業を行うのですが、昨年、そこで「死神(しにがみ)」という噺を演りました。そうしたところ、意外な反応が返ってきたのです。

 「死神」はれっきとした怪談噺ですが、例によって決して恐怖一辺倒ではありません。僕も滑稽(こっけい)な雰囲気を交えながら演じたのですが、アメリカ人の学生さんは真剣に、とてもこわごわと噺に耳を傾けていたのです。授業の明くる日に会った学生さんからは、「とても怖かった」と感想を伝えられました。日本人にとって「死神」はフィクショナルな存在で、現実味は希薄です。むしろ、死んだ人が化けて出る幽霊の方がよほどリアリティーがあるし、恐怖の対象となります。そうしたことをその学生さんに話したのですが、彼は「幽霊よりも死神の方が怖い」と答えたのです。

 また、筑波大学で臨時講師を務めた際にも、トルコ出身の学生さんから興味深い話を聞きました。彼は、日本の芸能の作品には「死」をとらえたものがとても多い印象があると言うのです。しかも、落語に関しては、「死」を笑いと結び付けたものがたくさんある。イスラム教徒である彼からすると、「死」をタブー視しないような噺は不可思議に感じるということでした。

 「粗忽(そこつ)長屋」という滑稽噺の代表格のような噺があります。「おい、オマエは死んでるよ」「俺は死んだ気がしねぇな」「そんなことねぇ。俺は今、観音様の裏でオマエの死骸(しがい)を見てきた」というやりとりから噺が幕を開ける。「死んだ気はしねぇって、初めて死んだのに死んだ気持ちなんか分かるもんじゃねえだろ。とにかく行ってみろ」って浅草の観音様に出向くと、まるっきり他人の顔の死骸がある。それを見て、「ああ、俺だ」ってナゼか自分だと思い込んだところから、噺が面白い方向に転がっていきます。日本人にとって「粗忽長屋」は純粋な滑稽噺です。でも、外国の方からすると、滑稽な部分も分からなくはないけれど、シュールで怖い噺だと感じるようです。あるいは、死者をもてあそぶようなところが不敬に感じるのかもしれません。

 もちろん、日本人も死者を敬う心は持っていますし、事実、お墓やお仏壇にはきちんと手を合わせます。また、そうした死者に対する畏敬(いけい)の念のようなものが、幽霊に対する恐怖心にも通じているのでしょう。ただ、一方で初七日やお盆など、死者との触れ合いともいえるような行事もたくさんある。今どきは違うかもしれませんが、僕らが子どもの時分には「死んだお爺ちゃんが見てるよ」などと悪事をたしなめられたりもしました。

 つまり、日本人にとって死者は、畏敬や恐怖の対象であると同時に、とても身近な存在でもあるのでしょう。だから、日本ではお芝居でも何でも「死」を扱った作品が多い。ましてや、人間の奥底にある業をチクチクと突っついて「人間は情けねぇな」って笑うのが落語の醍醐味(だいごみ)です。恐怖と笑いが同居する怪談噺が多いのも必定なのかもしれません。ともかく、怪談噺で恐怖を感じて涼み、大いに笑って寄席を後にしてくれたら、噺家はもちろん、幽霊としても本望ではないでしょうか。(談)

やなぎやさんきょう■1948年、東京都生まれ。1967年、5代目柳家小さんに入門(前座名は「小稲」)。1972年、二つ目に昇進し、「さん喬」に改名。1981年、真打昇進。2001年より落語協会常任理事を務める。文化庁芸術祭賞ほか受賞多数。

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