>>瓦版トップ >>177号トップ >>特集 色いろの春、到来
ニュートンと「色が見える」仕組み
 そもそも「色が見える」とは、どういうことなのでしょうか。太陽の光をプリズムに通すと、色の帯が現れます。プリズムは、ガラスなどでできた透明な三角柱で、光を屈折させます。虹は、太陽光がプリズムと同じ役割を果たす水蒸気や水滴を通してできる色の帯です。こうしたことは小学校の理科の時間に習うので、ご存じの方も多いでしょう。その色の帯を「スペクトル」と呼びます。

 このことを発見したのが、万有引力の法則で知られるニュートンです。彼はスペクトルを白紙に投影して観察し、色の帯をレッド(赤)、オレンジ(橙(だいだい))、イエロー(黄)、グリーン(緑)、ブルー(青)、インディゴ(藍(あい))、バイオレット(紫)の七色に区別しました。色の違いは波長の違いであり、もっとも波長の長い部分が赤く、もっとも波長が短い部分が菫(すみれ)色に見えます。こうした人間の目に見える領域の光を可視光線と呼び、それより波長が長くても短くても人間の目には見えません。

 つまり、「色が見える」ということは、特定の波長が人間の網膜に刺激を与え、色として感じさせているのです。ニュートンは「色は感覚である」という言葉を残しました。花でも服でもそうですが、もの自体が色を持っているわけではありません。ものに光が反射して生まれた波長を脳が解読し、「色が見える」わけです。ニュートンの言葉は、そうした人間の感覚が色であることを意味しています。

 ちなみに色彩学の祖・アリストテレスは「色彩論」の中で、虹は三色だと述べました。ニュートンと同様に虹(スペクトル)は七色であるとする記述は、四世紀の詩人が残した詩にもあるそうですし、シェイクスピアの戯曲にも登場します。ニュートンはスペクトルを発見しましたが、虹は七色であるとした最初の人ではないのです。ただし、ニュートン以降、虹が七色だという認識が世界的に広まったといっても過言ではありません。何より彼の光学に関する実績は、色を科学的に考察する上で欠かせないものとなっています。

幻想とイメージの中の「本当の桜色」
 色が見えるおおよそのメカニズムを説明しましたが、見えている色をどう言い表すかとなると簡単にはいきません。同じものを見て、その色をどう表現するかは、それこそ十人十色でしょう。そこで、コミュニケーションをスムーズにすることなどを目的に、古くから人は色の名前である「色名(しきめい)」を作り上げてきました。赤系の色名だけでも、紅(べに)色、牡丹(ぼたん)色、臙脂(えんじ)色、桜色、珊瑚(さんご)色、茜(あかね)色、鴇(とき)色、朱色などさまざま。時代の移ろいを反映して変化するのも色名の特徴で、現在では赤系に限ってもローズやピンクなどの外来語が一般的に使われるようになりました。また、春先の色というとかつては紅梅色が一般的でしたが、今では桜色を想起する人が多いと思います。

 では、「本当の桜色」とは、どんな色を指すのでしょうか。日本では固有種・交配種を含めると六百種以上もの桜の品種が自生しているといわれます。花弁の色が赤みの強い品種のカンザンもあれば、黄みのウコン、緑みのギョイコウもある。タイハクは白いし、薄墨桜は灰みを帯びています。また、現在の日本人が見慣れているソメイヨシノは江戸時代末期に作出され、明治以降に全国各地に広まったものです。桜は古い和歌にもたくさん登場しますが、それらの多くはヤマザクラを詠んだものでした。「桜色」とは文字どおり「桜の花の色」ですが、桜そのものが多種多様なのです。

 さらに野暮(やぼ)を承知で言を連ねれば、桜色とは一片の花弁なのか、ガクやおしべ・めしべを含んだ色なのか。あるいは、葉っぱや幹を含む一本の木なのか、並木などの一固まりを遠望した色なのでしょうか。さすがにここまであげつらうと、「本当の桜色」についてこだわることはそれほど意味をなさないことが明白でしょう。

 桜色に限らず「本当の○×色」を問われると、わたしも答えに窮します。ただ、桜色と言われてギョイコウを想起したり、ガクを思い浮かべる人などいないでしょう。現代の日本人の多くはソメイヨシノなどの淡い花弁の色をイメージするわけで、だからこそ桜色が色名として通用しているのです。

「悲しみの白」と「明るさの白」
 人間に限らず多くの動物の視覚には、ある対象をクローズアップして認識する傾向があります。そして、それ以外は背景として位置付け、さほど注意を払いません。「見る」という行為には、「見たいものを見る」「見たいように見る」といった心の動きが投影されているのです。多くの日本人が一本の桜の木から花弁の色である「桜色」を抽出するのも、見たいものを見たり、見たいように見たりしているからにほかなりません。その結果、日本人の多くは「桜」といえば淡いピンク色の花弁を想起するわけです。これが欧米であれば、ほとんどの人は「チェリー」といっても食べる方のサクランボをイメージするのではないでしょうか。対象の何に着目するか、そこから何を想起するかといったことには文化差や時代差、個人差があるのです。

 大正時代に民芸運動を起こした思想家・美術評論家の柳宗悦(やなぎむねよし)という人がいます。彼は李朝(りちょう)時代に作られた白磁を指して、「朝鮮半島に住む人々の悲しみがこもった色である」と言いました。朝鮮半島の痛ましい歴史を背景にした「人々の悲しみが白に凝集されている」と柳宗悦はとらえたのです。それに対し、韓国の美術評論家が反論します。「朝鮮半島の人々は確かにつらい歴史を背負っているが、それでも明るい気持ちを失わなかった。白磁の白は、明るさの白だ」と。どちらが正しいということではありません。これは白の例ですが、どんな色であっても、そこから何を想起するかということには文化差や個人差がある。さらにいえば、その色にどんな思いを託すかといったことにも常にプラスからマイナスまで両極端があり得るのです。

 色を見分けるということには、大きく分けて二つの役割があります。一つは、世界を見えやすくする、認識しやすくするということ。白黒写真とカラー写真を見比べると分かりますが、色の有る無しでは情報量が格段に違います。そして二つ目が、感情を揺さぶるという役割や効用。赤やオレンジなどの色が温かさを感じさせたり、白や黒に切なく悲しい気持ちを呼び起こされたりといったことです。動物にとっての色の役割は、前者の方が大きなウエートを占めるでしょう。しかし、人間にとっては後者の感情を伝えたり揺さぶったりするという役割の方がとても大きいのです。

 同じ桜を見ても、その美しさにうっとりする人もいれば、はかなげな様子に切なさを感じる人もいます。それは桜色やピンク色、赤や青などの色に対しても同じこと。人間は色に感情を揺さぶられるとともに、色に対して自身の思いを託したり投影したり、あるいは意味付けを行うのです。

時代とともに変わる「服の色」の意味
 一九五四年以来、銀座を歩いている女性の服装の色を毎年四季ごとに測定したデータがあります。その測定結果の色の出現率の推移を見ていくと、ある色がここ二十年ほどで急速に普及していることが分かります。その色は一九八〇年代以前、出現率の低い夏で五パーセント前後、春と秋は一〇パーセント前後、出現率の高い冬でも一五パーセント前後で推移していました。それが一九八〇年代後半から増え始め、二〇〇五年には出現率の低い夏でも二五パーセント、冬には三四パーセントに達しています。

 もったいぶらずに答えを申し上げると、その色は黒です。ただし、黒に近いオフブラックやダークグレーは増加していません。黒系統の暗い色全般が好まれているわけではなく、黒のみが台頭しているのです。このことから考えると、おそらく人々の黒という色に対する意味付けが変わってきているのでしょう。以前は黒い服装というと冠婚葬祭で着用するもので、フォーマルやシックなどのイメージでした。そうした意味付けは依然としてあります。ただ、黒に対して新たにカジュアルさなどのイメージを人々が見いだした結果、この二十年ほどで黒い服装が季節を問わず増えてきたのだと思います。

 似たような例に、旧日本陸軍の軍服の色だった「国防色」があります。カーキ色と呼ばれることもありますが、国防色は単一ではなく、ベージュからオリーブあたりの色です。それが戦後二十年ほどたった高度成長期には、同系統の色が「アースカラー」と呼ばれます。そして、戦争の暗いイメージを引きずることなく、アースカラーは流行色になりました。このように時代によっても、色に対するイメージや意味付け、色名は変化するのです。

記憶や対比で明るさを増す「春の色」
 変わるということでは、記憶の中の色も同様です。あらゆる物事は記憶の中で多少なりとも変容しますが、色も例外ではありません。色によって差はありますが、おおむね一度覚えた色は記憶の中でより鮮やかで明るい方へと変化します。よく知られた話ですが、カラー写真はもとの色を忠実に再現するわけではなく、明度や彩度を高めて仕上げます。それも、人々の記憶の中の色に近づくことを目指してのことです。おそらく桜色も、実際のソメイヨシノの花弁よりも、人々が記憶している桜色の方が明るく鮮やかでしょう。

 また、色の見え方についても多くの問題があります。例えば、対比。白の後に見た青と、黒の後に見た青では、同じ青でも受ける印象や見え方が違ってきます。四季の中で春は最も色めいた季節というイメージを持たれていますが、実際の自然界の色数や鮮やかさでは木々の葉が色づく秋の方が上です。これも、春の前の寒々しく色数の乏しい冬、秋の前の明るく強い色の多い夏との対比から、秋より春の方が華やいだイメージを持たれるのでしょう。もちろん、冬そのもののイメージと対比させて、春を明るくとらえるという心理的な側面も多分にあると思います。

 概して人工の色に囲まれた現代に暮らす人は、自然の色に過敏に反応する傾向があります。都会の人は旅先で田舎の景色を賞賛しますが、地元の人には日常的な色の連なりに過ぎません。そう考えると、桜を見て心が躍るのも、その色を目にするのが年一回に限られるからでしょう。一年中桜が咲いていたら、目が慣れてありがたみも薄れますから。そうした意味でも、日本の四季は偉大だという凡庸にして普遍的な結論に至るのです。(談)

おうみげんたろう■一九四〇年、広島県生まれ。財団法人 日本色彩研究所理事長。女子美術大学教授・美術研究科長・学長等を経て、現在、女子美術大学大学院教授。著書に「色の名前に心を読む−色名学入門−」(研究社)、「色の名前」(角川書店)、「色彩心理入門」(日本色研事業)ほか多数。

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